あの頃のカルチャー・クラブ〜誕生から1986年、カルチャー・クラブの活動休止まで〜

ミニマリストおばさんの身軽な推し活

にわかBoy Georgeファンです。

YouTubeやインターネットでPVやインタビューを見て情報収集しているうちに、年表を作り、活動内容やファッションの変遷などを時系列で整理したくなりました。

個人的に気になる出来事をまとめています。

誕生〜Culture Club結成まで(〜19歳):Boy Georgeは一日にして成らず

  • 1961年6月14日 ボーイ・ジョージ誕生。6人兄弟の3番目。
  • 14歳で学校を退学になる(ちなみに、イギリスの義務教育は5〜16歳)。
  • スーパーや果物工場などでアルバイトをしながらクラブ通い。派手なメイクとファッションでロンドンのクラブシーンで知られる存在になる。
  • モデルエージェンシーに登録。
  • マルコム・マクラーレンがプロデュースするバンド「バウワウワウ」に加入。ボーカルのアナベラ・ルーウィンと並ぶ存在として活動するが、マルコムと意見が合わず、後にバンドを離れる。
  • ブティック「リーガル」の経営を任される。
  • 自分のバンドをつくることを決意。ミッキー・クレイグ(ベース)にバンドを組もうと誘われ、友人の紹介でジョン・モス(ドラム)とロイ・ヘイ(ギター)が加入。

ボーイ・ジョージは、音楽一家の出身でもなく、音楽教育を受けていたわけでもありません。

もともとはマーク・ボランやデヴィッド・ボウイに影響を受け、派手で奇抜な格好をしてクラブに通っていました。そのうちにメディアにも注目されるようになり、カルチャー・クラブ結成前から、ロンドンでは知られた存在だったのです。

この頃のジョージは、眼帯や着物、青や黄色のファンデーションなど、カルチャー・クラブ時代とは比較にならないほどド派手なビジュアル。ハロウィンの仮装やコスプレに近いと言ったら失礼かもしれませんが、とにかく強烈です。

突飛な格好をして目立つだけでは先がないと考えたジョージは、「ポップスター」になることを決めます。

才能があっても、デヴィッド・ボウイの二番煎じのように扱われ、一発屋として消費されていくアーティストたちを見て、どうしたら成功できるのかを真剣に考えていたそうです。

マルコム・マクラーレンといえば、パンクカルチャーの火付け役。ヴィヴィアン・ウエストウッドとブティックを開業し、セックス・ピストルズやニューヨーク・ドールズにも関わった人物です。

そんなマルコムが手がけるバンドに参加することになったジョージ。普通なら有頂天になりそうなところですが、彼はマルコムのやり方に「金儲けに利用されるだけ」と疑問を持ち、自分自身のバンドをつくろうと考えます。

若干20歳にして、先を見通す力と賢さに脱帽です。

1982年(21歳):スター誕生!!

  • ヴァージン・レコードと契約
  • 「White Boy」でデビュー
  • 1stアルバム『ミステリー・ボーイ(Kissing to Be Clever)』が日本で発売

この頃のジョージは、ドレッドヘアーに大きなハット、デザイナーのスー・クローズやデクスター・ウォンとデザインしたカラフルでポップな衣装を着ています。

ダビデの星やヘブライ語をあしらったシャツに、ドレッドヘアーのアイルランド系イギリス人、ジョージ。

ジャマイカ系のミッキー、ユダヤ系のジョン、アングロサクソン系のロイ。メンバーの出自が実に多様だったことから、バンド名は「カルチャー・クラブ」になったそうです。

そのコンセプトは音楽だけでなく、ファッションにも表れているように感じます。メンバーそれぞれの文化的な背景が混ざり合っていて、わかりやすいし、今見ても個性的でとにかく素敵!

カルチャー・クラブの魅力は、異なる文化やルーツを持つメンバーが集まったというだけではありません。そうした多様性を、難しいメッセージとして掲げるのではなく、誰もが楽しめるポップミュージックやファッションとして表現していたところにもあると思います。音楽を聴いて踊っているうちに、自然とその世界観に引き込まれてしまうのです。

1983年(22歳):初来日したよ!!

  • 2ndアルバム『Colour by Numbers』発売
  • カラー・バイ・ナンバーズ・ツアー 主な訪問国: イギリス、アメリカ、カナダ、日本、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーなど。

初来日時のボーイ・ジョージの人気は非常に高く、混雑やパニックを避けるため、東京駅で新幹線に乗る際には特別な地下通路が使われたそうです。

ああ、全盛期のカルチャー・クラブのコンサートに行けた人が、本当に本当に羨ましい✨
願い事がひとつだけ叶うなら、80年代に戻って、ライブに行きたい。
Culture Club、Human League、Dead or Alive・・・

1984年(23歳):赤毛のIrish Fairy時代

  • A Kiss Across the Oceanツアー  主な訪問国: 日本、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ(フランス、ドイツなど)、南米(アルゼンチンなど)。
  • 3rdアルバム『ハウス・オン・ファイアー(Waking Up with the House on Fire)』発売
  • Band Aidに参加 

当時、ジョージはツアーの真っ只中。ニューヨークで寝ていたところ、主催者のボブ・ゲルドフから電話で起こされ、コンコルドでロンドンに駆けつけたそうです。

U2のボノ、スティング、フィル・コリンズといった、そうそうたるメンバーが集まる大プレッシャーの中、あの有名なソロパートを歌い上げました。ほぼ一回のテイクでOKが出たという話もあります。

プロフェッショナル・ジョージ。

この頃のジョージの髪は真っ赤。シミひとつない陶器のような肌に、人形のような顔立ち。あまりの美しさに息が止まりそうになりました。

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ちなみに、この時代に「フィル・ドナヒュー・ショー」というアメリカのテレビ番組に出演しています。ジョージの華麗な受け答えについて書いた記事はこちら。
「北斗の拳」のユダはCulture ClubのBoy Georgeがモデル? それでも私には、ジョージがトキに見える

1985年(24歳):Short Spiky Hair時代

  • Rock in Japan ’85に出演

3回目の来日。ザ・スタイル・カウンシルなどと共演しました。

この時の髪型は、剣山のようなショートヘア。

当時、ジョンとの関係は緊迫しておりジョージは薬物に溺れ、来日も危ぶまれるほどだったというネットへの書き込みをみたことがありますが、そんなことは微塵も感じさせないソウルフルなライブです。個人的な見どころはセクシーと卑猥のギリギリを攻めてる腰くねらせダンスの「Gusto Blusto」です🫣

  • 映画『エレクトリック・ドリーム(Electric Dreams)』に楽曲を提供

「Love Is Love」と「The Dream」の2曲を提供しています。どちらも哀愁漂う名曲です。

ちなみに、Human Leagueのフィル・オーキーも「Together in Electric Dreams」という曲を提供しています。こちらは、日本のアニメのオープニングソングを思わせるようなポップさがあります。

この曲のタイトルについて、後にフィルはインタビューで次のように語っています。

「ボーイ・ジョージが、彼自身の曲『Electric Dreams』と混同されないように、『Together in Electric Dreams』というタイトルにするよう主張したんだ」

ジョージは同じサウンドトラックに収録されたP.P. Arnoldの「Electric Dreams」の作詞・作曲にも参加しているので、曲名が重複するのを避けたかったのでしょうね。

ちなみに、この映画は、建築家の青年マイルズが隣人の女性に恋をするところから始まります。ところが、マイルズのパソコンが不慮の事故で意思を持ち始め、なんと同じ女性に恋をしてしまうという、人間とコンピューターの三角関係を描いたSFラブコメディです。

生成AIを先取りしたような内容で、とても面白そう!

調べてみたら、YouTubeで無料配信されていました✨

映画『Electric Dreams』(YouTube)

1986年(24〜25歳):栄光の陰に潜む暗雲と停止

  • 宝酒造のCMに出演

タカラ缶チューハイと焼酎「純」の2つのCMに出演します。

三蔵法師の姿をしたジョージが、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を引き連れ、砂漠を旅したり宴を催したりするという内容です。

CGなどの技術が当たり前ではなかった子どもの頃、このCMを観て、幻想的な映像とジョージの中性的な美しさに目を奪われたのを覚えています。ジョージの三蔵法師を最初に思いついた人は天才です。

CMソングもジョージが歌っているのですが、撮影と録音はどちらもロサンゼルスで行われたようです。

CMは大きな反響を呼んだようですが、ほどなくしてジョージが薬物所持で逮捕されたため、残念ながら放送は中止に。ジョージの曲も、マイケル・ジャクソンをはじめ50人の声色を模倣できることで知られるキップ・レノンに差し替えられました。

  • タカラ缶チューハイ:「Fireboy Meets His Match(恋のファイヤーボーイ)」作曲・編曲:細野晴臣
  • タカラ焼酎「純」:「All Prayers Are Answered(あなたのとりこ)」作曲・編曲:馬飼野康二

当時の音楽プロデューサーだった吉江一男さんのブログによると、ジョージは終始協力的だったのですが、「All Prayes Are Answered」だけは苦戦したそう。

ジョージがメロディを覚えていなくて勝手に変えて歌うので細かく修正指示をしていたら、怒って帰ってしまったそうです。ジョージ自身は当時のボーイフレンドと中華料理のレストランに行ったと回想しています。結局、ジョージの好きなように歌っていいということになったそうです。

「All Prayers Are Answered」のジョージのフルバージョンは残念ながら現時点でネット上で見つけられませんでした。キップ・レノンのバージョンも、広大なシルクロードを旅しているかのような素敵な曲でした。いつかジョージの歌声で聴いてみたい、幻の曲です。

吉江一男さんのブログはこちら

Fireboy Meets His Match(YouTube)

  • 4thアルバム『ラグジュアリー・トゥ・ハートエイク(From Luxury to Heartache)』発売
  • 薬物所持で逮捕。さらに、ジョージの自宅でキーボード奏者マイケル・ルデツキーが薬物の過剰摂取により死亡。

これらの出来事を経て、カルチャー・クラブは事実上の活動停止状態となります。


一旦、ここまでです。

しかし、こうしてみると、カルチャー・クラブはほぼ1年ごとにアルバムを制作して、同時に世界中を飛び回りツアーを行い、メディアの取材をこなすという超人的なスケジュールで仕事をしていたんですね。短距離走をずっと走っているかのような。

続きはまた次回。

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